2009年12月06日

社会教育者辞典 成田久四郎より

田澤義鋪(一八八五〜一九四四)

 田澤は明治十八年七月二十日、佐賀県藤津郡鹿島村高津原(現鹿島市)に父義陳、母みすの長男として生まれました。態本第五高等学校を経て同四十二年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、同四十四年横尾洋子と結婚、昭和八年洋子夫人死去、翌年福本節子と再婚。

 田澤は大学卒業前に休暇を利用して日露戦争後のわが国の支配下に入った満州朝鮮の視察の途に上りました。この旅行でかれが大連で見た光景は終生消すことの出来ない義憤を覚えました。それは戦勝を笠に着た日本人の傲慢さであり、中国の苦力などに対する非人道的取扱いでした。このとき、かれ自身の胸に久しく培われて来た道義感が猛然として戦闘態勢をとりはじめたのです。

「道義なくして何の国家です。日本は東洋のならず者になってはなりません。それには大国民的性格の教養こそ、とりわけ政治と教育の基調でなければならない」としました。このことが、かれ自身の将来を指向する原点ともなりました。

 かれは大学卒業と同時に明治四十三年四月静岡県属を経て同年人月、二十五歳の若さで同県安部郡長に任ぜられました。かれはこの郡長時代に農村青年教育に意を注ぎ農村を基盤とする青年団を育成し、さらにその活動範囲をひろげ、修養運動とも連携し、農村青年の人間形成を目的とする天幕講習会などをひらき、全国的青年団運動の下地をつくりました。こうした動きは、さらに明治神官造営のための全国青年団による勤労奉仕(天幕講習会を伴う)を契機として、後年、大日本連合青年団の結成、全国の青年の一人一円献金による日本青年館建設などに発展してゆくこととなりました。明治末年より大正時代を貫き、さらに昭和期にかけて日本の青年教育の重要な役割を果たした青年団運動の中心に、まぎれもなく田澤義鋪を見出すのです。

 また田澤は大正九年財団法人協調会の常務理事に就任、かれは青年団の経験を生かして労務者講習会をひらき労資協調をはかりました。さらに大正十一年には第四回国際労働会議に労働代表として出席しています。大正十三年八月、田澤は協調会常務理事を辞任し、この前後より政治に具体的に参与し、また政治教育に積極的な働きかけをしています。同年一月新政社を創立、雑誌「新政」を創刊。同年五月、彼がかつて郡長として青年団を育成した静岡県第三区より衆議院議員に立候補し、理想選拳を戦って惜敗、同年十月に東京市助役に就任しています。

 しかし何といってもかれの活動の本領は青年団運動にありました。大正十三年に結成された大日本連合青年団の理事に就任、同十四年十月青年館開館式に「道の国日本の完成」と題する記念講演を行っています。昭和四年には壮年団期成同盟会を創立し、壮年団運動を展開し、昭和六年には都下武蔵小金井の浴恩館に青年団指導者養成所を開設し、全国の中堅青年たちを集めて長期講習の指導に自ら当たり、昭和八年には田澤の親友下村湖人を講習所長に迎えています。昭和元年には大日本連合青年団並びに青年館の常任理事に就任、同九年には理事長となり同十一年四月理事長を辞任、青年団運動の第一線から去ったのです。

 なおこの間、田澤は昭和五年、同八年に、三回に亘り、両陛下に青年団に閑して御進講をしています。そして今日、青壮年指導の理論と実践の上でかれをのりこえた者は一人もないとまでいわれています。かれはまさしく日本の青年団の育成者であり、またこの運動の非凡な指導者でした。

 田澤は昭和八年貴族院議員に勅選されて、憂国の質問演説を行いましたが、それが単なる議場の拍手で終わったことは是非もない日本の運命であったのかも知れません。

 二・二六事件後の広田弘毅内閣に内後大臣として入閣を求められたがそれを断りました。昭和十四年には淀橋青果青年学校の校長に(無給)自ら志願して就任しています。かれは日本の動向が次第に非常時から戦争へと傾斜してゆくあの時代に「人生最高の悦びは自由創造にあり」とする新自由主義を信条としてよくぞ生き抜いたものです。

 だが青年団、壮年団の育成、政治教育、労務者教育など数々の偉業を体当たりでなしとげた教育思想家、田澤の歩んだ栄光の道も時流には抗し難く、かれの晩年に挫折の影を見るのです。そして太平洋戦争も深まる昭和十九年三月、四国善通寺の講演の旅にあって、あえて敗戦を予言し、その場に卒倒しました。以来わが家のしきいを踏むこともなく限りなき失意と、祖国の前途を案じながら十一月二十四日、旅路の善通寺で五十九歳の生涯を閉じました。

社会教育者辞典 成田久四郎より
(文章・文体は変えてあります)
posted by ss at 12:28| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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